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福島地方裁判所 昭和44年(ワ)56号 判決 1972年7月21日

原告 前後博之

右訴訟代理人弁護士 安田純治

同 大学一

被告 福島県

右代表者福島県知事 木村守江

右訴訟代理人弁護士 綱沢利平

右指定代理人 矢部治典

主文

一  被告は、原告に対し、金五六一万五一一九円およびこれに対する昭和四四年二月一五日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は被告の負担とする。

四  この判決は、主文第一項にかぎり、かりに執行することができる。

事実

第一当事者の求める裁判

一  原告

1  被告は、原告に対し、一一二九万七一八三円およびこれに対する昭和四四年二月一五日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行の宣言

二  被告

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  原告の請求原因

1  本件注射事故の発生

(一) 原告は、昭和四一年二月九日、福島県立喜多方病院(以下「喜多方病院」という)において、同病院長半沢元彦(以下「半沢院長」という)の診察を受けて狭心症常態と診断され、入院を命ぜられた。

(二) 同月一二日、半沢院長の回診の際、同院長から看護婦永戸和子(当時古川姓)(以下「永戸看護婦」という)が原告に対してグレラン液注射を三日間続行するよう指示された。

(三) 永戸看護婦は、同日午後一〇時ころ、原告の病室において原告の上部にグレラン液を筋肉注射し、この注射により原告は神経外傷による橈骨神経麻痺の傷害を受けた。

2  半沢院長および永戸看護婦の過失

(一) 医師および看護婦が注射を行なう場合には、注射の方法が静脈か動脈か、皮下か皮肉内かを明確に確認し、注射部位が上であれば、三角筋に注射する等安全な部位を選び、針の深度、注射時の筋肉の収縮ぐあい等をよく観察し、針が神経に刺さったり、近接しないよう注意を払うべきであり、注射後においても、異変の生じた場合には適切迅速な診療を施し、病勢の拡大を未然に防止すべき義務がある。そして、注射は医師自ら行なうか、または看護婦をして行なわせるときは、右の点について十分な監督と注意とをすべきである。

(二)(1) 永戸看護婦は、院内の消灯後、原告の病室の室内灯をつけず、所持した懐中電灯を左手に持って原告を照らし、よく安全部位を確認しないで前記注射を行なった。

(2) 原告は、注射針を刺された瞬間、右手指先まで電撃的なしびれと痛みとを感じ、「痛い」と大声で叫んだのに、同看護婦は原告の苦痛もかまわず、原告の上部の撓骨神経に前記注射液を強力に注入した。

(3) 注射後原告は右手に激痛を感じ、手首がだらりと下り、指先が動かなくなったので、これを訴えて手当を求めたところ、同看護婦は、「そんなはずはない、少しすると治る。」といって何ら手当をしなかった。

(三)(1) 半沢院長は、自ら注射をせず、かつ、前記の注意を与えないで、漫然と永戸看護婦に注射を指示した。

(2) 同院長は、原告の父から異変発生の事実を告げ診療を求められたのに、「君の手は猿手だから、三日ぐらい過ぎればなおる。」といって、四日間冷湿布を一日二回右手首だけに行なったにすぎず、三日ぐらい過ぎて少しもよくならないので、回診の際原告がその旨を告げたところ、「君の手はわし手だ。」とか、「一週間ぐらいでなおる。」とかあいまいなことをいったのみで、五日を過ぎてようやく電気治療を始め、一〇日目に強く要請したところ、ようやく市内のマッサージ師をよんだものである。

(3) 猿手とは、別名下垂肢とよばれるもので、撓骨神経麻痺の特徴的症状であり、同院長は、原告が撓骨神経麻痺にかかり、右麻痺になった場合回復に相当期間の治療を要し、手遅れになると回復が困難になることは医師の常識として当然知っていたと推認されるのに、積極的に治療しようとしなかった。

3  原告の損害

(一) 医療費   金六五万二九七二円

(1) 喜多方病院               四万〇七九九円

(2) 新潟大学病院                 七八〇円

(3) 竹田病院               四九万〇〇三七円

(4) 同病院内科から撓骨神経麻痺に使用した薬品代 五五三六円

(5) 同右                  五万九七五五円

(6) 太田病院                四万九七五五円

(7) 昭和医大病院                 六三〇円

(8) 物江病院                  四三七〇円

(9) 滝沢病院                  一三〇〇円

(二) 医療器具費 金九二六〇円

(1) 撓骨神経麻痺用補装具            一四一〇円

(2) 同右肘関節用装具              七三五〇円

(3) 同右補修代                  五〇〇円

(三) 医療諸雑費 金七六万一八〇八円

(1) 新潟医大病院受診経費          一万二一四五円

(2) 竹田病院入院準備費             七〇〇〇円

(3) 同病院入院経費(昭和四一年四月七日から昭和四三年五月一二日まで)                          一二万三〇二八円

(4) 同病院付添費用(右同期間)      二九万七六〇〇円

(5) 太田病院転院および入院経費(昭和四三年五月一三日から同年七月一五日まで)                       五万二六八〇円

(6) 昭和医大病院受診経費          七万一六八〇円

(7) 右各病院入院諸雑費          一九万七六七五円

(四) 逸失利益

原告はその父義雄の営む洋服仕立販売業の専従者として洋服の仕立てに従事していたが、本件事故当時四五年四月(大正九年一〇月一〇日生)であり、なお二七年間稼働可能であって、洋服業職人の一日の賃料は金一五〇〇円であったから、一年間の収入は金四五万円を下らない(1,500×25×12)。原告は本件受傷により洋服仕立てをすることは全く不可能となったから、右期間の逸失利益の現在価額は金七五六万二〇一九円を下らない(450,000×16.80448369(ホフマン係数))。

(五) 慰謝料

(1) 原告は、昭和一〇年から昭和一七年三月まで七年間にわたり、洋服仕立技能を修め、以後現在まで洋服裁縫技師として営業してきており、昭和二七年三月三一日には洋服裁縫士技能者養成の資格を取得したが、本件受傷により、右業務の遂行は不可能となり、従来の洋服技師や弟子を入れ、店を拡張しようとしていた夢は消え失せ、他に生活の道を求めることを余儀なくされたものの、年令が長じているうえ、手が不自由であるので、他の道も不可能に近い。しかも撓骨神経麻痺という神経特有の激痛に生涯悩まされ続けなければならない。

(2) また一家の中心である原告が右のような状態に陥った家族は前途暗嘆たる致命的打撃を受けたのである。

(3) このようにして原告の被った肉体的精神的苦痛は甚大であり、これに対する慰謝料額は金三〇〇万円を下らない。

4  被告の責任

喜多方病院は被告が設営しているのであり、半沢院長および永戸看護婦はその被用者であり、本件注射事故は被告の事業の執行中に生じたものである。

5  よって、原告は、被告に対し、右損害賠償金一一二九万七一八三円およびこれに対する本件訴状送達の翌日である昭和四四年二月一五日から完済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する被告の認否

1(一)  請求原因1(一)の事実を認める。原告は同日同病院内科外来を訪れ受診したが、その折の病歴によれば同月一日夜突然いわゆる狭心症発作を起し、約一分間続き、その後一日約四、五回同様の発作があった由であったので、直ちに入院させたのであり、原告の主訴、年令、現病歴、既往歴、家族歴および諸種の臨床検査所見等を総合判断すると、冠動脈硬化症に由来する典型的狭心症と診断され、また狭心症は一般に発作が一日に一、二回が普通であり、しかも安静にしておれば比較的起きないのであるが、原告の場合、安静にしていたにもかかわらず、一日四、五回の発作を起こすので、重症狭心症にみられるいわゆる狭心症常態と判断されたのである。原告は、入院した九日には三回、一〇日には六回、一一日も数回発作を起したので、時によっては発作を止めるため、モルヒネを用いた場合もあったのである。

(二)  同1(二)の事実を認める。もっとも、半沢院長の回診に随行した看護婦は田中トシ子であり、同人から日勤の風間和子看護婦へ、同看護婦から準夜勤の永戸看護婦へ申し送られたのである。

原告は、頻発する発作のため、かなりの恐怖感と不安感を抱き、ほとんど連日バランス等を用いているにもかかわらず、夜も浅い眠りであり、同月一二日の院長回診の際、「眠れない、頭が痛い。」旨訴えたので、半沢院長は、できるだけ原告の気持を楽にして安眠させてやりたいという配慮から鎮静および鎮痛の目的にそうグレラン液を三日間夜眠りに入る午後九時ないし一〇時前後に準夜勤務の看護婦が筋注するように指示したのである。

(三)  同1(三)中、撓骨神経麻痺の点を否認し、その余の事実を認める。撓骨神経に対する障害は右手拇指および示指がしびれる程度であった。

2(一)  同2(一)中、医師が自ら施行すべき義務があるとの点を争い、その余の注意義務の内容を認める。

(二)(1)  同2(二)(1)中、永戸看護婦が注射を行なったことを認めるが、その余の事実を否認する。

(2) 同2(二)(2)、(3)の事実を否認する。

(三)(1)  同2(三)(1)中、半沢院長が自ら注射をしなかったことを認め、その余の事実を否認する。なお喜多方病院では定期に講習を行ない、事故の起らないように努力してきている。

(2) 同2(三)(2)の事実を否認する。翌一三日回診の際、主治医は、原告から右手の拇指と示指がピリピリしてしびれるという訴えがあったので、恐らくは前夜グレラン筋注の際、撓骨神経の近くに針が刺さり、注射液が神経を刺激した一時的現象と判断したのであり、殊に前記のように原告はかなり神経質の人であったので、実際以上に強く感じているのではないかと考えられた。

そこで院長らは原告に対しその不安な気持を鎮めるため、「普通神経の傷害は二、三週間ぐらいするともとに戻るのが多いから。」といって慰め、かつ元気づけし、他方直ちに次の処置をとった。すなわち

(ア) 半沢院長が電気刺激療法および温湿布(ビノールによる)を一日数回繰り返し、右手を暖めるように看護婦に指示した。

(イ) その後経過を注意してみると拇指のしびれが幾分強くなって来るようなので、あるいは撓骨神経の不全麻痺であると困るので、主治医が同月一五日からさらにATP注射を加え、マッサージ療法を朝夕二回ずつ行うよう指示した。

(ウ) 指のしびれが思うように回復してこないので、主治医が同月二三日から市内のマッサージ師を招き、毎日治療させ、さらに同月二八日からはビタメジンを加え、投薬する様指示した。

かようにして狭心症の治療と併せてできるだけの手当を加え、同年三月に入ってから狭心症は時折軽い発作を訴えるのみになったが、注射の余後ははかばかしい回復を示さないまま同月二二日ころ半沢院長回診の折、原告から新潟大学附属病院で診て貰いたい旨相談を受けたので、同病院神経内科の椿忠雄教授に電話をかけたり、紹介状を添えて原告に対する便を図ったのである。なお、同院長は、原告に対し椿教授診断の結果明らかにグレラン注射による事故であることが判明したら旅費、診察料等を病院で負担する旨も言明した。

(3) 同2(三)(3)を争う。撓骨神経麻痺の症状は手が弛緩下垂してダラリとなる状態で、懸垂手とよばれるものであり、当時の原告の症状は拇指と示指との屈伸運動ができないようであったが、他の指は可能であり、半沢院長は右腕関節および指関節神経麻痺と診断したものであり、撓骨神経麻痺の診断がされたのは同年三月二五、六日の新潟医大病院においてであった。

3(一)  同3(一)中、(1)は金一万二二四〇円(国民健康保険診療費中自己(原告)負担分)の限度で、(3)は金二三万六五六三円(同上)の限度で認める、(2)、(8)および(9)の事実を認め、その余の事実は不知。

(二)  同3(二)の事実は不知。

(三)  同3(三)中、(1)の事実を認め、(3)金六万三〇二八円(昭和四一年四月七日から昭和四二年五月三一日までの分)の限度で、(4)は金五万九一〇〇円(同上)の限度で認め、その余の事実は不知。

(四)  同3(四)中、原告がその父義雄の営む洋服仕立販売業の専従者として洋服の仕立てに従事しており、本件事故当時四五年であったことを認め、その余を争う。

狭心症患者の多くは発作初発後五ないし一〇年生存する(五〇〇例中九〇パーセントが初発後八年以内に死亡し、八年以上の生存者の平均余命は一八・四年であるとか、一五ないし二〇年以上生存するものもあるとの報告もある)とされているので、原告主張の残存稼働可能年数は長きに過ぎ、また原告は本件注射事故がなかったとしても、右病状により通常人程度の稼働はできなかったものであり、原告が今後一日の休養もとらないとしてした原告の算定は不当である。

(五)  同3(五)を争う。

4  同4中、喜多方病院は被告が設営し、半沢院長および永戸看護婦は被告の被用者であることを認める。

三  被告の抗弁

1  原告は、竹田病院において同年三月二八日初診を受け、同年四月七日入院し、被告に告げることなく、同月一二日撓骨神経剥離手術を受け、同年五月一三日一応退院している。すなわち、本件症状(喜多方病院退院当時は軽症であった)に対して適切な処置がなされたのにかかわらず、原告は、神経剥離手術が神経およびその周囲に薬物が注入され瘢痕が形成されている場合、すなわち神経自体に変性が起っている場合には意味がないとされているのに、適切でない右手術をうけた結果症状が悪化したのである。

したがって、原告当初の症状が永戸看護婦のグレラン液注射に基因するものとしても、また仮りに原告が現に撓骨神経麻痺の傷害を受けているとしても、右の誤った手術を受けた結果に外ならないのであるから、本件注射と麻痺、すなわち注射と本件損害発生の間には因果関係を欠くか、または中断したものといわざるをえない。原告自身手術の結果、さらに症状が悪化した旨竹田病院に抗議している事実からして右手術に基因する麻痺であることを承知しているはずである。

2  被告は、原告に対し、本件損害賠償金の一部として、医療費金二四万九五八三円(新潟大学病院分金七八〇円、喜多方病院分金一万二二四〇円、竹田病院分金二三万六五六三円)、諸雑費金一二万四二七三円(新潟大学受診経費一万二一四五円、竹田病院入院経費六万三〇二八円、同病院付添費五万九一〇〇円)、休業補償費金三一万五〇一八円合計金六八万八八七四円を支払ずみである。

四  抗弁に対する原告の認否

1  抗弁1中、原告が被告主張の手術を受けたことを認め、その余の事実を否認する。

2  同2の事実を認める。

第三証拠関係≪省略≫

理由

一  請求原因1中原告が撓骨神経麻痺の傷害を受けたとの点を除いて、当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫を総合すると、原告の右上肢は撓骨神経麻痺となり、右傷害は、永戸看護婦の行なった前示の注射において、注射針が撓骨神経の近くに刺入されたため、グレラン薬液が同神経に浸潤したことにより惹起されたものであることが認められ(る。)≪証拠判断省略≫

二  被告は原告の右傷害が原告のその後受けた神経剥離術にもとづくと主張するので考えてみる。

≪証拠省略≫によれば、注射による撓骨神経麻痺については、その予後が概してよく、保存的療法によって撓骨神経が回復するものが多いので、まず保存的療法により三か月ないし六か月の経過を見たのち、その他の観血的療法を行なうのが妥当であるとの考え方があること、神経剥離術は撓骨神経麻痺の治療方法として無意味であるとの考え方があること、原告に対する神経剥離術が行なわれたのは昭和四一年四月一二日であることが認められるが、一方≪証拠省略≫によれば、神経剥離術により少なくとも撓骨神経の症状が現認でき、施術が失敗した場合はともかく、施術自体が害となるものではないこと、因果関係は必ずしも明らかではないが、神経剥離術が好結果をもたらしている症例があること、原告の撓骨神経の神経繊維束は黒色をおび軟化していたことが認められ、全立証によっても原告の受けた右神経剥離術が失敗したこと、保存的療法によれば原告の撓骨神経麻痺が治癒したであろうことを認めるに足りないから、被告の右主張は採用できない。

三  被告が喜多方病院を経営し、永戸看護婦および半沢院長が被告の被用者であることは当事者間に争いがなく、本件注射が右喜多方病院における診療行為として行なわれたことは前示のとおりである。

四  そこで本件注射およびその事後処置についての永戸看護婦および半沢院長の過失の有無について判断する。

1  前示の事実、≪証拠省略≫を総合すると、つぎの事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

(一)  原告は昭和四一年二月一日夜から左側前胸部の疼痛感、心悸高進の発作があり、その後一日四、五回同様の発作があったので、同月九日喜多方病院で半沢院長の診察および諸種の検査を受け、狭心症常態の診断がなされ、即日同病院に入院したが、発作が続き、食慾なく、不安感に悩まされ、不眠ないしは浅眠状態にあった。

(二)  同月一二日の半沢院長の回診の際、原告が不眠と頭痛を訴えたので、同院長は随行した田中トシ子看護婦に対して眠れないときはグレラン(別名ピラビタール)液の筋肉注射を午後一〇時ころ三日連続して施用するよう指示した。右指示は日勤の風間和子看護婦を介して準夜勤の永戸看護婦に伝えられた。永戸看護婦は昭和三四年準看護婦の資格を得、以後看護業務に従事している。同病院の看護婦の勤務は三交替制で日勤は午前九時から午後五時四五分まで、準夜勤は午後五時から翌日午前一時四五分まで、夜勤は翌日午前一時から午前九時四五分までであり、病院の消灯時間は午後九時であった。

(三)  指示を受けた永戸看護婦は、同日午後一〇時ころグレラン液の注射の準備をし、レンズ部分の直径七、八センチ、把柄部分直径約五センチの懐中電灯を携行して、原告の病室に赴き、入口のスイッチをつけ室内に入り、原告の寝衣の右袖を押し上げたが、原告が厚着をしていたため、押し上げ方が不充分のまま両手を使用して、原告の右上肢の肘から約七、八センチの外側の部位に注射針を刺入し、グレラン薬液を注入した。その際原告は激しい痛みを覚え、「痛い」と叫んだが、同看護婦はそのまま注射を続け、この注射は痛いんだからといって特段の手当をしないで病室から出た。

(四)  グレラン薬液は刺戟性の強い薬物であって、撓骨神経に障害を与えるおそれがあるので上肢に筋肉注射を行なう場合には三角筋内に行なう必要があり、注射を行なうことを業とする者にとってこのことは常識とされており、筋肉注射は各種の注射中比較的容易なものである。

(五)  注射後原告は右拇指および示指部位にしびれ感があり、時々激痛を伴うので、同月一三日午前八時ころ、原告の妻セツをしてその旨訴えさせた。当日は日曜日であったので受持の看護婦は主治医の上野医師にその旨電話連絡し、同医師からのゼノール湿布をするようにとの指示にもとづき、これを行なった。

(六)  翌一四日午前の回診の際、上野医師は原告から局所の疼痛が相当強く右拇指と示指のしびれ感を訴えられ、軽い運動障害が認められたので、低周波をかけるよう指示し、同日午前一一時すぎころ、半沢院長は原告の父良雄から右注射の状況を訴えられ、かつ上野医師、代嶋婦長からの報告もあったので、同日午後零時すぎころとくに原告のところへ赴き、原告から前同様の訴えを受けたが、すでに上野医師の指示により手当を加えていたので、その時は格別の指示をしなかった。

(七)  その後原告の右注射による症状は軽快しなかったので、同月一五日から低周波を二回とし、かつATP注射を行ない、同月二三日からはマッサージを行なった。同年三月四日右上肢の指を若干動かせたことがあったが、全体的には漸次症状が悪化して行った。

(八)  同月二四日狭心症は軽快し、原告から新潟大学附属病院で診察を受けたいとの希望が述べられたので、半沢院長は、退院を認め、同大学神経内科の椿教授に対する紹介状を与えて同教授を紹介した。原告は、同日退院し、同月二五日椿神経内科で診察を受け、同教授から同大学整形外科でも診察を受けるようすすめられ、同整形外科で診察を受けたところ、撓骨神経麻痺の診断を受け、さらに筋電図検査を受けるよう指示されたが、これを受けないで帰宅した。当時の所見では、上腕三頭筋は正常で、長拇指伸展筋と総指伸展筋に軽度の筋収縮が認められるほか他の撓骨神経支配筋には他覚的収縮がみられなかったが、撓骨神経単独支配域に知覚鈍麻が認められる状態であった。

2  グレラン薬液のような刺戟性の強い薬液を上肢に筋肉注射をする場合には撓骨神経に障害を与えるおそれがあるから、そのおそれのない安全な部位である三角筋を確認して注射を行なうべき注意義務があるというべきであるが、右事実によれば、永戸看護婦が本件注射を行なうにあたって右注意義務を怠ったといわざるをえない。ところで、グレラン薬液注射は比較的危険性のあるものであるが、筋肉注射はそれ程困難なものではないから必ずしも医師自らこれを施行しなければならないものではなく、また永戸看護婦の知識および経験に照らすと、その施行前に施行上の留意すべき点を指示告知しなければならないものではないというべきである。そして、注射による撓骨神経麻痺の治療方法としては、前示のように保存的療法により三か月ないし六か月経過を観察することが一般的に行なわれており、本件においては原告が相当重症の狭心症であり、その治療を行なう必要があったのであるから、本件注射事故を知った後半沢院長のとった処置は相当であったといってよく、同院長に過失があったということはできないが、被告の被用者である永戸看護婦の過失によって被った原告の傷害を払拭するに足りないから、被告は原告の被った損害を賠償すべき責に任ずるといわなければならない。

五  進んで原告の被った損害について検討する。

1  医療費

(一)  前示のとおり原告は本件事故後昭和四一年三月二四日まで喜多方病院に入院して治療を受け、同年三月二五、二六日新潟大学附属病院で診察治療を受けたこと、≪証拠省略≫を総合すると、つぎの事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

(1) 原告は、本件事故による撓骨神経麻痺の診察および治療のため、昭和四一年三月二八日竹田病院で診察を受け、同年四月七日から昭和四三年五月一二日まで(七六七日間)同病院で入院加療を受け、同月一三日から同年七月一五日まで(六四日間)太田病院で入院加療を受け、同月一七日昭和医大病院で診察を受け、同月二五日から少なくとも昭和四六年九月一三日まで物江医院で通院加療を受け、昭和四三年八月二日および昭和四五年八月二八日身体障害者福祉措置を受けるため滝沢医院で診断を受けた。

(2) 前記医療を受けたため、原告は、喜多方病院に対し金二万〇三五四円を支払い(国民健康保険負担部分を除く自己負担部分である)、新潟大学病院に対し金七八〇円を支払い(当事者間に争いがない)、竹田病院に対し金四九万〇〇三七円を支払い(自己負担部分であること前同様である)、太田病院に対し金四万九一五五円を支払い、昭和医大病院に対し金六三〇円を支払い、物江病院に対し金四三七〇円を支払い(当事者間に争いがない)、滝沢医院に対し金一三〇〇円を支払った(当事者間に争いがない)。

2  医療器具費

≪証拠省略≫によれば、原告は東北補装具製作所に対し、補装具代として金一一〇〇円を支払ったことが認められ(る。)≪証拠判断省略≫

3  入院付添費用および入院諸雑費

原告が竹田病院および太田病院に入院したことは前示のとおりであり、原告本人尋問の結果、当裁判所に顕著な事実および弁論の全趣旨によれば、原告が、竹田病院に入院中付添看護を要し、その妻セツがこれに当り、右付添看護費用として金二九万七六〇〇円を要したこと、右竹田病院入院中の諸雑費として金一二万三〇二八円を要し、右太田病院入院中に要した諸雑費は少くとも金一万二八〇〇円を相当とすることが認められ(。る)≪証拠判断省略≫

4  逸失利益

(一)  前示四1(一)および(八)、五1(一)(1)の事実、≪証拠省略≫を総合すると、原告の父良雄は洋服仕立販売業を営み、本件事故当時原告がその専従者として洋服の仕立に従事しており、良雄は五八才、原告は四五才であったこと、右良雄の昭和四〇年度の事業所得申告額は金三九万一〇〇〇円であること、狭心症患者は発作初発後の平均余命は一八年余であること、昭和四三年七月一七日当時原告の症状は固定し、右上肢の用を全廃し、身体障害者障害等級第二級に該当することが認められ、他にこれに反する証拠はない。

(二)  してみれば、他に特段の事情の認められない本件においては、原告が請求金額の遅延損害金の起算日を昭和四四年二月一五日としていることにかんがみ、昭和四一年三月二五日から昭和四三年七月一七日まで(八四六日間)は入院加療等のため全く就業できなかったこと(昭和四一年二月一二日から同年三月二四日までは原告の狭心症による入院治療のため就業できなかったのであるから、逸失利益の算定には考慮されない)、昭和四三年七月一七日現在で労働能力喪失率は八〇パーセントであること、平均余命は発病当時の昭和四一年二月九日から一八年余であり、その年令に対比すると就労可能年数は訴状送達の翌日である昭和四四年二月一七日から一五年であること、右良雄の営む洋服仕立販売業に対する同人と原告との寄与率は一対一であることと認めるのが相当である。この基準数値にもとづいて、原告の逸失利益を算出すると、昭和四四年二月一五日現在の金額は金二二九万〇六九四円、この数式の第二項の「二一一」は昭和四三年七月一八日から昭和四四年二月一四日までの日数であり、第三項の「一三四・〇九三七」は就労可能年数一五年の月別の民事法定利率によるホフマン係数である。)となる。

5  慰謝料

原告が本件受傷により精神的肉体的苦痛を被ったことは明らかであり、≪証拠省略≫によれば、原告は昭和一〇年から昭和一七年三月まで七年間にわたって洋服仕立の技能の修得につとめ、その後洋服仕立業に従事してきたが、昭和二七年三月三一日には洋服裁縫士技能者養成の資格を取得したこと、原告は原告の家族の中心となっていること、本件受傷によって洋服仕立は不可能となり、洋服業の拡張はもちろんその継続もほとんど不可能となったことが認められ、この事実および前認定の各事実その他本件にあらわれた諸般の事情を考慮すると、原告の被った精神的損害に対する慰謝料額は金三〇〇万円を相当とする。

6  被告が原告に対し、本件損害賠償の内入弁済として金六八万八八七四円を支払ったことは当事者間に争いがない。

六  以上の次第により、被告は、原告に対し、右損害賠償金五六一万五一一九円およびこれに対する本件訴状送達の日の翌日であること記録上明らかな昭和四四年二月一五日から完済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務あるものというべく、原告の本訴請求は右の限度において理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条ただし書を、仮執行の宣言につき同法第一九六条第一項を、それぞれ適用し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 丹野達 裁判官新田誠志および同石井彦寿は転任のため署名押印することができない。裁判長裁判官 丹野達)

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